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ファンキーな出で立ちと天然キャラのギャップで、いまやバラエティ番組に引っ張りだこのDJ KOO。彼は90年代の音楽を牽引(けんいん)してきた人物のひとりであり、その作品は現在の音楽の中でも確実に息づいている。当時の音楽について尋ねると、バラエティとは違う真摯(しんし)な口調でじっくりと答えてくれた。

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写真:トレンドニュース


■「18の頃からずっと今日いままで、DJ」

「もともとミュージシャンを目指して、バンド活動みたいなことをしていました。やってきたのはロックだったんですが、高校を卒業して初めてディスコに行って、通っていくうちに、DJを意識し始めました。ラジオやテレビでは触れたことのない音楽であったり、踊りであったりとか、そこにしかないようなものっていうのがディスコにすごくあって、ハマっていったんです。

DJになったのは、80年代で18の頃。見習いから始めました。かなり体育会系で、給料がなくても、言われたことを全部やって、そこで覚えていけっていう環境。でも高校のラグビー部で鍛えられていたおかげで、疑問を感じるっていうのはなかったですね。それよりも早くいろんな曲を自分でかけられるようになりたいなと思っていました。

当時のDJっていうのは、フリーで活躍するというより、店に所属しているものでした。チーフがいてセカンドがいるという体制で、DJがお店の看板を背負っていたんです。それで僕が見習いを続けている間に新しい店舗ができて、『そこでパートをやっていい』みたいになって。だから就職というものをしたことがなくて、それからずっと今日いままで、DJ。

仕事は夕方4時に出勤して、5時から音を出してという感じ。早番と遅番があって、夜の10時45分までを担当する早番といわれているDJがメイン、そのあとで、セカンドは朝まで担当していました。80年代のディスコは平日でも常に満員でお客さんの数は今と桁違い。給料は同年代の大卒初任給よりはいいぐらいの感じでしたが、お金のことは気になりませんでした。でも『それくらい楽しかった』というのはまたちょっと違って、ただ日々を乗り切っていく感じがよかったのかもしれませんね」

■小室哲哉との出会い「そばにいさせてもらった」

「小室さんとの出会いは、ベイサイドクラブのイベント。その頃お客さんも巻き込まれる事件が起こって、夜の12時以降にディスコの営業ができなくなったんです。それでDJが失業しだして、店舗も減ってきて、ブームもマハラジャみたいな風に変わっていきました。でも僕はそんな風潮の中でもとにかくDJをやっていた。そしたら、ディスコ業界の横のつながりで『今度イベントがあるんだけど、DJをやらないか』って声をかけられた。それが小室さん主宰のイベントだったんです。

小室さんを紹介される前は、洋楽ばっかり聞いていたので、邦楽ってすごくポップスな世界だろうっていうような認識でした。でも小室さんがレコーディングをしている最中にあいさつに行ったら、小室さんはミニムーグっていうベースの音源をいじっていたんですよ。邦楽のアーティストでもここまで掘り下げて音作りをするんだって、うれしい驚きを感じました。コアな作業だって思ったことを小室さんはやっていて、すごく共通性があって、さらにもっともっとコアな部分で長けてるところがあって、さらにどんどんいろんなものが出てくる。毎日通って小室さんと会うたびに、新しい発見であるとか、自分の知らないことがいっぱいありました。小室さんとは仲良くなったというより、本当にそばにいさせてもらったという感じでした」

■多忙のあまりDJの現場から遠ざかってしまった

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写真:トレンドニュース


「ベイサイドのイベントはもともと小室さんのソロ活動の一環であって、本格的にダンスミュージックをやるには、ロンドンで発祥したレイブイベント(一夜限りの大規模な音楽イベント)をやろうって感じでした。でも本場のレイブは、郊外のだだっ広いところの倉庫なんかで、DJがでっかい音出して、無機質で単純なビートだけで皆がひとつになっているようなもの。さすがにそれは日本じゃなじまないから、小室さんはダンサーとDJとボーカルを作って、日本人が楽しめる要素を入れたんです。それがTRF結成のきっかけじゃないですかね。

だけど、曲を作り始めても、メンバー皆はそれが自分たちの曲とは思ってなかったと思います。どこでどう話し合われていたのかはわからないけれど、連絡がきたから集まったって感覚だったので(笑)。僕が初めて参加したのはファーストアルバムがなかば出来上がったときで、『ラップできる?』って聞かれて、『ちょっとじゃあこれ入れてよ、こことここまで』って感じで何曲か入れて。今思えば、出来上がる前に参加できてよかったなぁって思います。

TRFっていうグループを意識し始めたのは、『寒い夜だから...』『Silver and Gold dance』、『愛がもう少し欲しいよ』を3曲同時にリリースしたとき。『ジャケットの撮影があるんで集まってください』って言われて、『これから5人でやるみたいだよ?』『そうなんだ』みたいな。そこからじゃないですかね。

1位にランクインするようになってからは、僕とYU-KIはレコーディングの日々でした。もうそのときには小室さんもTRF以外のプロデュースを手掛けるようになって、こっちにかける時間がなくなって。小室さんが曲を僕とYU-KIがいるスタジオに送ってくれて、そこで詩を入れていったり、歌い方をふたりで考えてレコーディングしていったりっていう作業が日夜続いていました。楽しいでもないし、つらいでもないし、充実でもないし、とにかく真正面から曲に取り組んでいくだけでした。やり終わった感っていうのはいつも全然なかったです。

いちばん大変だったのはH Jungle with tをやっていたとき。TRFと同時に参加していたので、TBSのレコード大賞であるとか、NHKの紅白はもちろん、毎年カウントダウンをやっていたヴェルファーレがあって、1日に4、5回いろんなところを往復して、リハの後にまた別のリハをやってみたいな。そのときの目まぐるしさといったら......。でも充実はあったかな。ただ、現場でDJをやる時間が全然とれなくて、久しぶりに現場にいって回そうとしても、今どういう時代の流れで、どういう曲で盛り上がるのかっていうのがわからなくなった。なので、後輩のDJに最近流行っている曲を教えてもらったりして、もう一度DJをやり直すって段階がありましたね。TRFだとかの音楽活動だけでなく、現場でDJができないと、自分は完成形ではないっていうのがわかった時期でした」

■90年代は予兆の時代だった

「90年代を振り返ってみると、この時代をどう生きるか、どう向かい合うかで、2000年以降が変わってくるという時代でした。自分が出演する番組にTRFを聞いていたというADやアーティストが出てくるようになってきて、特に思うのだけど、そのときでなければ得られないものがすごくあったという時代。90年代になにかの予兆を感じて、あの時代を乗り切るというか、いろんな取り組みをしてきた人間は今もすごく輝いていると思いますね」

【プロフィール】
DJ KOO(ディージェイ・コー)
1961年8月8日生まれ。東京都出身。音楽グループ・TRFのリーダーでラップ・DJ担当。ほかにもDJ・ミュージシャンとして数々の名曲に携わり、90年代の日本のダンスミュージックを牽引(けんいん)してきた。現在は"恐妻家"や"天然"といったキャラクターに加え、外国産クワガタやゴジラなどについてのマニアックな知識で、バラエティ番組でも活躍している。

(文/青山美乃@HEW

【90sTV マンスリーインタビュー】DJ KOO>>

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