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清原和博に新人最多記録の31号ホームランを打たれた、元プロ野球選手の田子譲治。その後、田子は読売ジャイアンツの打撃投手として清原のバッティングを支え、かつての因縁から"清原の恋人"と呼ばれることもあった。引退後に身を持ち崩してしまった清原だが、田子によれば「とても義理堅くて、律義な男」だったという。

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(GYAO! トークバラエティ「ぶるぺん」出演 元プロ野球選手の田子譲治)


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■苦難の連続だった選手時代

――田子さんは鳥取西高校のエースとして3年時に夏の甲子園に出場し、1回戦で16奪三振を奪って準完全試合を達成。一気にプロ注目の投手になりました。

田子:「甲子園に出るまではほとんど無名の存在だったんですが、初戦で好投したことで金田正一さんが『あんなにホップするようなストレートを投げる投手は江川以来だ』と褒めてくださったんです。対戦相手はみんな、とんでもない高さのボールを空振りしていました。あの試合は絶好調で、まったく打たれる気がしませんでしたね」

――大会後には全日本チームに選出され、1981年のドラフト2位でロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)に入団。とはいえ、プロ入り後は苦難の連続だったそうですね。

田子:「学校の事情で最初のキャンプにきちんと参加できず、コンディションを崩したままチームに合流してしまったのが痛かったですね。2年目のキャンプでも、いきなり強い球を投げたことで肩を壊してしまったんです。当時はまだ科学的な調整方法が確立されていなかったので、投げ終えた後のアイシングもしていませんでした。僕に限らず、あのころはけがでつぶれてしまった選手が大勢いたと思います」

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(GYAO! トークバラエティ「ぶるぺん」出演 元プロ野球選手の田子譲治)


――プロ4年目の1985年に初めて1軍のマウンドへ。しかしここでもアクシデントに見舞われてしまいます。

田子:「ようやく調子が上向いてきたところでしたし、初登板までが長かったので気持ちも入っていました。でも、投げる前から少し肘に違和感があったんです。大丈夫だろうと思ってマウンドに立ったんですが、1回も投げ終えないうちに肘の遊離軟骨を負傷してしまって......。さすがにショックでしたね」

■"因縁"の清原に打撃投手として再会

――翌年の秋、田子さんはけがを克服して1軍に舞い戻り、すでに30本のホームランを放っていたスーパールーキーの清原和博さんと対峙(たいじ)します。どんな気持ちで勝負に臨んだのでしょうか?

田子:「こいつにだけは絶対に打たせない、と考えていました。向こうは甲子園のスターで、プロ1年目から結果を出している天才でしたけど、やっぱり僕にもプライドがありますから。でも、あの31本目のホームランはうまいバッティングだったなぁ......。打たれた球はカーブでした。タイミングを外して泳がせたのに、一瞬"フッ"と動きが止まってボールを見事に拾うんですよ。レフトポールの真上を打球が飛んでいって、塁審の手が回ってホームランを告げられた瞬間は、とにかく悔しくて仕方がなかったです」

――その後、田子さんはけがや不調が重なって1990年に現役を引退し、打撃投手として読売ジャイアンツに入団しました。最初の対戦以降、清原さんとの交流はありましたか?

田子:「僕が現役の間はまったくなかったですね。1997年に清原がジャイアンツに移籍してきたときも、あの31本目のホームランの思い出を軽く話したくらいです。当時は彼の担当でもなかったし、会話らしい会話はほとんどありませんでした」

――では、なにがきっかけで清原さんの担当として投げるようになったのでしょうか?

田子:「2001年ごろに、たまたま風呂場で一緒になったんです。調子を崩していた清原に『田子さん、ちょっとお願いできますか』と頼まれたので、早出の特打に付き合うようになりました。その成果かどうかはわかりませんが、ある試合で彼がホームランを2本打って、ヒーローインタビューで『田子さんに感謝したい』と言ってくれたんです。なかなか裏方の名前まで出してくれる選手はいませんから、やっぱりすごくうれしかったですよ。ただ、周りが勝手に"清原の恋人"と言い始めたのは迷惑でしたけど(笑)」

――打撃投手として練習に付き合う中で、田子さんは清原さんの人柄についてどのような印象を抱いていましたか?

田子:「僕が見ていたジャイアンツ時代は、荒んでいる時期の方が多かったかもしれません。でも、本質はとても義理堅くて気配り上手なんですよ。あくまでも打撃投手と選手という仕事上の関係でしたが、誠実に関わった人間に対しては本当に律義な男でした。僕のおやじが亡くなったとき、彼はすでにオリックスに移籍していたんですが、どこからか聞きつけて立派な供花を送ってくれたんです。親戚中で花の奪い合いになりましたよ(笑)。おやじも喜んでくれたと思います。

情に篤いぶん、人に裏切られることがトラウマになっていたような気がします。KKコンビのドラフトでの事件はもちろん、念願かなって相思相愛で入団したジャイアンツでも、優勝を逃した途端に上層部が『A級戦犯だ』と手のひらを返すわけですから。辞めさせられるような形でジャイアンツを退団したのも、相当悔しかったんだと思います。『必ず野球界に必要とされる人材なんだから、なにもジャイアンツにこだわらなくてもいいじゃないか』と話をしたこともあるんですが......。結局、彼は2008年にオリックスで現役を引退し、僕も2009年に打撃投手を引退しました。それからは特に連絡をとることもありませんでした」

■野球をやめても、別の道を選べるように

――その後、清原さんの逮捕に至るまで交流が途絶えていたにもかかわらず、田子さんは身元引受人に名乗り出たと伺いました。どういった心境からの行為だったのでしょうか?

田子:「『清原の身元引受人がいない』という報道を目にしたことがきっかけです。弁護士さん以外には会えない状態ということで断られてしまいましたが、できることなら面会して話がしたかったですね。保釈された彼が以前のように華やかな世界に戻っていったら、また見栄や嘘にまみれてしまうんじゃないか、と思ったからです。それよりも、たとえば人目につかない地道な仕事で汗を流して、少しずつ社会に認められることでプライドを取り戻してほしかった。これからどう生きるかはもちろん彼の自由ですが、野球界や芸能界に復帰するにしても、そのほうがカッコいいじゃないですか」

――清原さんに限らず、引退後に行き詰まってしまう選手は少なくありません。アスリートのセカンドキャリアの難しさについて、田子さんの考えを教えていただけますか?

田子:「たとえばプロ野球選手というのは日本の野球界の頂点なので、やっぱりみんなプライドが高いんですよ。でも引退して野球界から離れてしまえば、見方によっては"ただの人"以下になるわけです。他の人たちが勉強や仕事をしているときに野球しかしていないわけですから、下手をすると本当になにも残らない。

もちろん、プロに入れなかった野球少年も同じです。なまじ体力があり余っているせいで、変な環境に行ってしまう人間も多いじゃないですか。不良や暴力団と付き合ったりするのも、結局なにもないからなんです。だからこそ、プロになりたくて野球に打ち込んでいる子が、若いうちから手に職をつけられるようになってほしい。資格を取得しながら甲子園にも出られるような、そんな環境が当たり前になればいいなと思っています」

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◆田子譲治(たご・じょうじ)
1963年6月30日生まれ、鳥取県出身。鳥取西高校のエースとして第63回全国高等学校野球選手権大会に出場し、1回戦で見せた16奪三振・1安打完封の快投で注目を集める。1981年のドラフト会議でロッテオリオンズに2位で指名され、入団。現役引退後は、1991年から2009年まで読売ジャイアンツで打撃投手を務めた。2009年にはWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)にも帯同し、裏方として侍ジャパンの世界一に貢献。
座右の銘は、「明日は明日の風が吹く」。

(取材・文/曹宇鉉@HEW

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